2007年05月19日

デイヴィッド・リンチ / マルホランド・ドライブ

 映画というものは、非常に直接的なジャンルだ。そこには映像があり、音がある。つまり実際に私たちが現実世界を認識している状態に極めて近い。だからこそ、ある意味分かりやすい。ところが一方、映画というものは様々な解釈を生む表現だ。だからこそ世に映画評論家や評論本などが存在する。この私にしたって、この場所で様々な解釈をしてみせたりもする。
 それは人それぞれが違って、様々な受け止め方があるから、ということではない。それは感想の次元であって、解釈とはもっと根源的な部分、或いはもっと小さな場面場面に於いてのことなのだ。例えばカメラが切り取るアングル、動き、カット割り……。単純に物語のあらましだけで私たちは映画を理解してはいない。そこには様々な描写があり、それらが暗喩するところを私たちは理解し、それによって全体像を形成する。
 しかし様々な評論本などを読めば分かることだが、私たちは驚くほど目の前の映像を見てはいない。具体的なことについては実際にある本に譲りたいが、とにかく私たちは目の前に映像が映し出されているにも拘らず、まるでそれから目を逸らしているかのようなのだ。いや、だからこそ批評というジャンルは存在する。映像は具体的でありながら、謎めき、暗喩に満ち溢れている。そこに含まれている意図を汲み取るには、それ相応の努力や経験が必要なのだ。
 で、「マルホランドドライブ」である。デイヴィッド・リンチの謎めいた映像がここぞとばかりに凝縮された作品、緻密に練り上げられた物語構造、観客はその謎を解くことに躍起になる。余りにも難解過ぎて、嫌になる人もいる。それが一般的な受け止め方とされているのだろう。しかし実際に目にしたそれは、余りにもありがちな暗喩、飛躍のない描写、単純な物語構造を抱えた、何の変哲もない、正直なところどうでもいいものだった。
 確かに簡単に、その世界観を捉えることは出来ない。少しばかりの混乱を感じることもある。しかし多少の混乱を感じる部分はあれど、ひとつひとつのシーンをかいつまんでよく吟味すれば、驚くほど当たり前な描写しかないのだ。
 例えばこの作品はいわゆる「ハリウッドの光と影」をテーマにしているが、実際のところ舞台としている場所もハリウッドだ。いや、ご丁寧にハリウッドの看板まで二度映し出される。夜のハリウッドを山から俯瞰するショットも、二度登場する。そうやって、余りにも説明じみた映像を挿入する。これではまるでニュース映像ではないか。
 そう、自分はこの作品を見ていて最初から違和感がずっと募っていたのだが、その違和感とは「物語の見えなさ」ということに基づいているのではなく、むしろ「不用意なまでの分かりやすさ」に基づいたものだった。例えばハリウッドの看板をご丁寧に二度映し出すという余りにも説明じみたショット。そんなショットは不必要だ。それは作品を謎めかすために不必要、というわけではなく、充分に、それ以外の場所でハリウッドであることが言及されているから不必要なのだ。なのになぜ、そんなショットを挿入するのか。
 それ以外にも同じような思いに駆られた箇所は幾つもある。例えばふたつの世界を繋ぐ「箱」。それを開いた瞬間、世界は繋がると共に作品は一変する。その発想自体はそれほど目新しいものではないが、しかしそれをあからさまに批判するつもりはない。ただ問題は、それを開いたときの演出なのだ。もう一つの世界に突入するからといって、何もその中に吸い込まれるような演出までする必要はないだろう。余りにも幼稚なのだ。完璧に謎めいた作品を作りたいのなら、映像による暗示をより求めたいのなら、そんな直接的な描写は必要ない。ただ単に箱を開くカットを入れるだけでいい。しかしデイヴィッド・リンチはその先をやってしまう。それが自分にはよく分からない。
 冒頭のジルバだってそうだろう。あのときが彼女にとっての絶頂だったって、見たままではないか。そしてそこにわざわざ女の満面の笑みを重ねる。余りにも分かりやすすぎるのだ。
 この作品の完全読解を詠っているサイトなんかを見て感じるのだが、その完全読解にしろ、非常に当たり前のことについて書いているだけなのだ。「よくないことが起こっている」と主人公に対して言うおばさんは、主人公の不安を暗示している。当たり前ではないか。それは暗喩ではない。解釈ではない。見たまんまなのだ。本当の解釈とは、そこから一歩先に踏み込んだものではないのか。
 それでも人々はデイヴィッド・リンチの作品を難解で深い世界観を持ったものと捉える。確かに訳の分からない部分もあるだろうが、その殆どは、簡単に説明出来てしまうものだ。しかしそれでも難解といった評価が為されるのは、つまりデイヴィッド・リンチがそういった「何でもないレベルの暗喩」を、わざわざ自らの指差しを添えて観客に差し出していることが関係しているのだろう。
 冒頭で触れたが、映画というものはどんなものでも謎に満ち溢れている。それが俗にいう「ハリウッドの娯楽大作」であっても同じことだ。映像による暗喩は、どんな作品にも見られる。それに気付かないのは、私たちが映像を見ようとはしていないからだ。私たちは映像を見ている振りをしているだけで、「本当は沢山の映像を見落とすことによって理解している」のだ。そこから脱却するためには、もう努力しかない。
 デイヴィッド・リンチにしろ同じことなのだが、ことさら彼の作品がこうやって「謎めいたもの」として評価されるのは、そこにわざわざ蛇足な説明を付け加えることによって、そこに暗喩が含まれていることをいちいち示すからだ。私たちが常日頃見落としている(そして見落とすことによって作品を理解する手助けとなっている)暗喩を、彼はいちいち示す。だから一種混乱してしまうのだ。
 しかしよくかいつまんで吟味すれば、全ては単純であり、ある意味下世話であり、そしてやはり蛇足だらけなのだ。例えば映像の暗喩の最高峰であるキューブリックと比べれば、その蛇足具合は露になる。キューブリックなら絶対に箱に吸い込まれるようなカットは入れないし、死後の世界をイメージした劇場に白い煙を入れたりしない。まあ両者ともその暗喩の向こうにそれほどの世界観があるわけでもないが、少なくともキューブリックは映像の暗喩の力によってその世界観が深淵であると思わせることが出来ている。ところが一方デイヴィッド・リンチは映像の暗喩によって深遠なる世界を示しているのではなく、むしろその暗喩をわざわざ「これは暗喩なのです」と言わんばかりの説明を付けて差し出すから、大して読解力を持ち合わせていない観客でさえ、「これは何か違うことを示しているのだ」と思い込んで熱中する(逆に読解力を持ち合わせた者ならば、その過剰なばかりの説明に気付き、逆説的に何かがあるのではないかと思うことになる。しかしその実何かがあるわけでもない)。そういった意味合いでは、デイヴィッド・リンチは大衆の貧しい感性を逆手に取った手法の開拓者なのかもしれないが、しかし本当に映画を読み解こうという姿勢の前では、やはり物足りない。
 もしあなたが本当にデイヴィッド・リンチの作品に深遠なる世界を感じるならば、それを読み解こうとする姿勢を保ちつつ、あらゆる映画に向かうべきだろう。デイヴィッド・リンチだけが、映像に暗喩をもたらしているわけではない。全ての映像はどんな映画に於いても、暗喩に満ち溢れている。私たちはそれを見落としているだけだ。
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posted by とよてつ at 21:16| Comment(0) | TrackBack(1) | えいが
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Excerpt: 難解と言うのは答えが有るから難解という訳で、この映画は立方体のルービック・キューブでは無く、平面のジグソー・パズル。本体のパズルから、わざわざ数枚のピースを抜いておいて...
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